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介護福祉士について(前半)

この企画は、介護のあり方の変化に着眼し、昔の介護を振り返り、今の介護との違いを見直そうとするコーナーです。
解説は、「介護福祉経営士」情報誌 Sunにおいて「タイムトラベル~ケアの過去・現在・未来を探る旅」を執筆されている、神奈川県介護福祉士会所属の井口健一郎氏(小田原福祉会潤生園施設長)と風晴賢治氏(日本介護福祉士会前常任理事)が対話形式で介護の昨今について語ります。
第6回は、「介護福祉士について」をテーマに振り返ってみましょう。今回は前後編の前編となります。

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介護福祉士誕生前

今回は介護福祉士資格の誕生前後についてお話ができればと思います。介護福祉士が誕生する以前の福祉の資格といえば社会福祉主事という任用資格がありました。今でも大学や短期大学で厚生労働大臣が指定する科目のうち3つ以上を履修し卒業した場合に取得することができるため、役所のケースワーカーや社会福祉協議会で働いている人の中で見かけることがあります。私が大学卒業後に入職した施設では、今でいう介護職は“寮母”と呼ばれていましたね。専門学校を卒業した若い保育士(当時は保母とよばれていました)と近隣の家庭の主婦というほぼ女性中心のスタッフで構成されていました。
当時は福祉職の国家資格はなく、「だれでもできる仕事」と思われ、専門職としての自覚と責任も今より薄かったように思います。

介護福祉士ができる前は「寮母」「直接処遇職員」ホームヘルパーは「家庭奉仕員」と呼ばれていましたね。寮母という言葉は障害者の生活支援員がかつて寮母という名前から来たことが由来みたいですね。昨年亡くなった潤生園の時田はこの「寮母」という名前についておかしいと言っていました。母というより、ご利用者よりも年下だし、なんか、お年寄りが従わなくてはならない存在のように聞こえるため、ケアワーカーと呼んだ方がよいのではないか、ということで潤生園は開所間もない頃(1978年(昭和53年))からケアワーカーと呼んでいたそうです。
僕も学生時代、寮に入っていたので寮母さん、寮夫さんがいましたが、故郷を離れて面倒を見てくれる第二の父、母の存在でした。ただし、これは若い学生の感覚なので、高齢者にとってはあまりしっくりきませんね。未婚の方もいますし。

当時の時田園長の先見性には敬意を表します。当時は当たり前に呼んでいましたが、中には違和感を持つ人もいましたね。
私が大学生だった当時、宗教系の大学等には福祉の学部がありましたが、まだまだ数は少なく、また福祉の仕事は殆どメディアに出ることもなく、就活でも今ほどの求人数はなかったんです。そして、私は福祉系の学部ではなかったので、「福祉業界で働く」と言ったら、多くの友人に何故?と首を傾げられました。
まだ措置の時代でしたので、福祉施設で働いていた人は、『公務員に準ずる』という身分で、公立の施設もまだ多かったこともあり、そのような施設で働いてる人には自分は「公務員」だと勘違いしている人も中にはいましたね。まだまだ福祉施設の経営という概念は少なかった時代です。措置費が経営努力しなくても相応に入ることもあり、ある意味 ”古き良き時代“でした。

私は現在、40代ですが、「老人ホーム」という存在は縁遠いものであったと記憶しています。在宅を中心とする介護事業所が一気に広まったのは2000年(平成12年)の介護保険施行からですよね。私は学生時代、教育学部児童教育学科であったため、「介護等体験」というものがありましたが、イマイチ、ピンとこなかったことを覚えています。
ここで、風晴さんからお話があった「措置費」という話ですが、現代の人にはあまり馴染みがない言葉かもしれません。

措置とは…
毎年、行政が必要経費を確認し、予算を計上して、施設を運営するという形。

以前は、電鉄(国鉄)、郵政公社(郵便局)、電話(電電公社)、塩・煙草の会社(専売公社)など国営企業でした。介護施設に関しては、2000年(平成12年)の介護保険制度からこの形式は大きく変わり、ご利用者と対等な契約方式に変更されました。措置入所の時代は、年間で予算消化しなくてはならないことだけではなく、行政が一方的に入所者を決めて、施設も必ず受けなくてはならないという選択の自由がない時代でした。


1989年介護福祉士国家試験のスタート

その措置時代に「介護福祉士」という国家資格ができるということで慌てたのが、介護の専門教育を受けていなかった層の人たちでした。1989年(平成元年)の第1回試験では、それでも必死に勉強して資格を得た人が何人もいて、のちにその中から介護支援専門員として初期のころの介護保険を支えた人が大勢いましたね。私個人でいえば、「介護福祉士という国家資格ができるようだ」と知った時は、「ようやく国家資格という肩書きが持て、一人前の職業人として国民や同業者に認められる時代が来るのか」とほくそ笑んでいた記憶があります。

これは当時、現場にいた人にしか分からない感覚ですね。「職業人として、社会に認められた、国家資格だ。胸を張って専門職と名乗れる」という誇りを感じられたんですね。前述の風晴さんの「社会福祉主事」しか資格がなかったことが1986年(昭和61年)に開催された国際社会福祉会議において課題にされ、緊急の検討会が開かれたということでしたね。それ以前に何度も問題提起はされていましたが、なかなか重い腰があがらなかったのが、国際的に課題として挙げられてしまった。介護福祉士制定はソーシャルワークの専門職としての社会福祉士とケアワークの専門職の介護福祉士という世界的に珍しいダブルライセンスをツインで国家資格を作った経緯があります。ちなみにケアワークの介護福祉士は、ドイツの老人介護士(Altenpfleger)という国家資格がモデルだったそうです。
当時の社会福祉専門官であった京極高宣氏が「難産」であったと述懐しています。当時、検定試験で安易に養成しようとする労働省(当時)と2年間の養成課程で生み出そうとする厚生省(当時)が激しく対立したことと、日本看護協会と家政婦協会が反対した中、粘り強く対話をし、ご理解を頂いたとのことでした。そして、時を経て現在の「介護福祉士」は他国もモデルにする資格となっています。

介護福祉士と社会福祉士について定めた「社会福祉士及び介護福祉士法」が制定されたのは1987年(昭和62年)ですね。新しく何かを生み出そうとする時は、歴史的にみても自分たちのテリトリーを守ろうとしたり、権力を保持するために反対勢力が出てきますよね。また、日本の介護スキルは間違いなく世界的に見てもトップクラスだと思います。

主な流れ

時折、私も他の国の研究者や大学教員から「介護福祉士のような資格を自分たちの国でも作りたいのですが、どういった教育内容なのでしょうか」とお問い合わせを頂きます。また、これは日本国内の話なのですが、「介護福祉士を英語でなんていうんですか?」と聞かれることがありますが、「介護福祉士」と「介護老人保健施設」「小規模多機能型居宅介護」は日本発祥のものであることを知らない人がまだまだ多いと思われます。高齢者に限定しない、介護という行為だけではない。福祉という広い視野でのプロフェッショナル、それが介護福祉士です。

そうですね。「“介護”“福祉”士」ですからね。そういえば介護福祉士の国家資格が制定される際に、“これからは介護の時代だ”とばかりに、養成校が全国各地に開校し、介護福祉士の資格保持者が増える追い風になりました。ただ、介護福祉士が介護現場でリーダー的役割を担い、現在のように全国で190万人にも迫る等とは、その頃は想像もしていませんでした。

今は、介護福祉士という専門職なくしては介護を語れませんね。高等教育機関で介護を教育し、研究するという取り組みは日本が先駆的ですね。私が教鞭をとっている神奈川県にある和泉短期大学は日本で初めての訪問介護員の養成機関として、介護福祉士ができる前から老人介護の教育をしていた学校でもあります。

そんな学校があったんですね。福祉の現場では、介護福祉士ができるということで、事業所全体で「合格しよう!」と積極的に研修や対策を講じたところもあれば、「それは個人の資格で、今後は資格手当も考えなけりゃいけないし」と、冷めた感じの事業所もあったような気がしますね。また、当時青森県内で労働組合を持っている社会福祉法人はほとんどなく、『資格を取る→職能団体ができる=圧力団体』と考える管理者もいたようで、それぞれの立場や思惑が入り乱れていたように思います。

日本介護福祉士会初代会長の田中雅子さんが大変ご苦労されて、それでも介護福祉士の地位獲得のために奔走されたというお話を、田中初代会長から以前お聞きしたことがあります。

田中元会長は私も何度かお会いしたり、青森で朝方まで飲み明かした思い出があります。とにかくパワフルな方です。介護福祉士の知名度アップや報酬単価への上乗せに苦慮された創世期だったと思います。職能団体である介護福祉士会は都道府県介護福祉士会が先に設立されて、日本介護福祉士会はその後の1994年(平成6年)の設立でしたね。青森県介護福祉士会は1990年(平成2年)の設立ですので、日本介護福祉士会より少し年上です。

話を介護福祉士の国家試験に戻すと、介護福祉士の試験が5択のマークシートというのは公表されたものの、どのような傾向の問題なのかが皆目見当がつかず、手探り状態で様々な問題集に向き合いました。何点取れば合格なのか、はたまた正解率何パーセント以上取らなければいけないのか、噂が飛び交い一喜一憂しました。

ああいう噂はどこからスタートするんですかね(笑)

噂はどこからともなく聞こえてきますよね。私のいた施設は、「取れるものなら何でも取れ」みたいな雰囲気があり、研修への参加や参考書は割と準備してくれましたが、科目ごとの分厚いテキストを前に、落ちたら職員に顔向けできないというプレッシャーが常にありました。介護支援専門員の試験が始まった時もそうでしたが、それまでの経験値や過去問もないので、不安や危機感で今思い起こせば逆にそれが“火事場のバカ力”的なパワーを生んだような気がします。

それは誇らしい風晴さんの勲章ですね!


国家試験受験の思い出

私が働き始めた当時は「介護」という言葉はなく、「介助」という名称が主で、障害の形態別や車いすの構造等のハンドブックはありましたが、周囲に参考になるような施設が少なかったこともあり、職員の専門性はバラバラで、見様見真似で覚えた記憶があります。その頃は、1週間くらいぶっ通しでの合宿研修があり、全国から集まった介護の同志で、新しい知識・技術・考え方等を学び、すべてが新鮮に感じましたね。
その後、介護福祉士ほど国の政策や思惑に振り回された国家資格はないということは、皆さん承知の事実だと思います。現在でも”准介護福祉士“という歪?な資格や経過措置の先延ばしやらで、なかなか落ち着かない状況です。

2007年(平成19年)に介護福祉士の業の定義も「入浴、排せつ、食事その他の世話」から「心身の状況に応じた介護」変わっていますしね。現在では医療的ケア(胃瘻・喀痰吸引)も入っていますしね。
私の話ですが、私が受験した当時は実務経験3年で介護福祉士の国家資格の受験ができました。私は、訪問介護員2級(現在の介護職員初任者研修相当)の資格しかもっていませんでしたが、現在は、実務経験のみで受験できるルートはなく、介護職員実務者研修を受講しなくては受験資格を得ることはできません。私は、法人の教育担当や介護の教員(はじめは法人内の介護職員初任者研修の講師)をする時、実務経験からでしか合格していなかったため、体系的に学ぶ経験がありませんでした。社会福祉士の資格も通信教育でしたので。そこで、人に教える自信がなかったため、神奈川県立保健福祉大学実践教育センターの教育担当・介護教員コースで1年間、学びました。たしかに、私は小学校教諭として教壇に立った経験もありますし、また大学院では教育学を研究していました。しかし、この介護という社会の中で生きる人の生活を支える、人生を支える、そして知識と臨床での実践の教育を改めて学ぶことができ、目からうろこでした。
現在、日本介護福祉士会も講師養成研修(リーダー研修)などもおこなっており、講師として学ぶ機会も十分にあります。学びたい、学んだことを人に伝えたいという意欲がある人には環境は整っていますね。

講師をしてみたい人はぜひ講師養成研修(リーダー研修)に参加してほしいですね。また介護福祉士にはぜひ認定介護福祉士にも挑戦してほしいですね。実は青森県介護福祉士会でも認定介護福祉士の養成研修の開講を予定しています。さて、国家試験受験当時、私は相談員という職種で、施設の方針もあり業務では身体介護(入浴、衣類の着脱、トランスファー等々)は殆ど経験していませんでした。今は二次試験(実技)を受ける人は少なくなりましたが、当時は一次試験(学科)に合格した者が二次試験に進む形式で、一次試験は地元の青森県で受験できましたが、二次試験の会場は少なく、東北地方では宮城県仙台市だけでした。運よく一次試験に通っても二次試験はたった7分間(当時)のために前泊しなければならず、資格を取るということはお金がかかるものだと実感しましたね。

これは私の黒歴史ですが、勇気をもって初めて公で告白します(笑)実は私は一回、介護福祉士の国家試験を落ちています…実は社会福祉士も…介護福祉士に落ちた理由は、二次試験で試験官の前で直前に告げられた課題をモデルの人に行うという緊張感溢れるものでした。あがり症の私は頭が真っ白になり、適切なケアができなかったことを覚えています。その後、猛勉強をし、自立支援の介助方法などを学び、当時、ポケットゲーム機で一問一答のソフトがあったので、それをやり倒し、翌年には合格しました。今では、介護教員として学生の前で教えていますが、私は順風満帆ではなく、一回、一回、しっかり挫折し、諦めず、立ち上がって現在の自分があります。社会福祉士については、当時、施設ケアの現場しかやったことがなかったので、圧倒的に見識が狭かったことが原因です。これも猛省し、一生懸命勉強して、翌年、無事、合格しました(笑)

えー、そうだったんですか。カミングアウトをすれば、私も第1回目の介護福祉士の試験に落ちているんです。一緒に受験した施設の仲間のうち、実技で落ちたのは自分1人。
落ちた言い訳は、後半の誌面でお話ししたいと思います。(苦笑)
多くの方が経験されていますが働きながらの試験勉強は本当に大変ですが、仲間がいたので勉強できた面はたくさんあります。


介護との出会い

私の福祉の原点は、学生の時のボランティア活動でした。たまたま新聞の地域版に「ボランティア募集~すぎの会」という小さな囲み記事を見つけ、「暇つぶしにはいいかも」くらいの軽薄な気持ちで入ったんです。
私が入った頃は東京都の2つの障害児者施設と長野県の児童養護施設の計3か所の施設を定期的に訪問していましたが、私が初めて行ったのは東京都郊外にあったS園でした。訪問したのはゴールデンウィークの最中で、今よりメーデーの活動が盛んな頃でした。何のレクチャーや事前情報もなく、行けばわかる的な感じで先輩会員たちは何の気負いもなく淡々としていましたね。
施設に近づくと、赤い旗が何本もなびき、何も知らない私は訳も分からず右往左往。施設に入ると挨拶や打ち合わせもなく、ボランティアルームにまっすぐ入り、準備開始。ふと窓越しに見ると、職員らしき人たちが鉢巻をして会議をしている様子。状況を知らない私の目には、利用者をほったらかしにしているようにしか見えませんでしたね。しかし、すぎの会の人たちは何もないかのように、寝具を天日干ししたり、利用者を散歩に連れて行ったり、それぞれが役割を持って動いていました。とその時、突然「風晴さん、おむつ交換をやって」と言われ、目が点に…。それまで、一度としておむつ交換などやったことはなく、だれも事前に教えてくれるわけでもなく、その時どうやって交換したかはまったく覚えていません。
その後食事の準備や食事介助をしたんですが、騒いで殆ど食べない人、床に座り食べる人、トイレ周辺で食べる人等、想像をはるかに超える光景に言葉が出ませんでした。このように、一番最初のインパクトが強烈だったので、その後は大概のことでは驚かなくなってしまいました。その後、養護施設等にもボランティアに赴き、訪問した先々で利用者とのふれあいや生身の人間と向き合う素晴らしい体験をし、「これが私の生きる道だ」と決め、福祉の世界に飛び込んだんですよ。

私も全くなんの予備知識を持たず、介護現場に入った一人です。周りの親族からは「介護は大変だよ」「なんで教員辞めてまで介護をするんだ」「給料は安いし、なんでお年寄りのおしめを交換する仕事なんてするんだ。すぐに音を上げるぞ」など言われました。でも、僕は介護という仕事をしてみたかったので、潤生園の採用担当の人に履歴書をもって会いにいきました。「じゃあ、井口君、来週の月曜日、8時かられんげの里のショートステイの現場に来て。3日間体験して大丈夫だったら採用ね」と言われました。日本の介護のイメージが全くなかった僕はカナダにいた頃、2週間体験した老人ホームで行ったお年寄りのお話相手になったり、配膳を手伝ったり、一緒にご飯を作って食べたり、送迎するくらいの仕事だと考えていました。しかし、現実は違いました。
当時のショートステイは、介護度の高い人も多く利用者されていました。僕の体験の初日は当時、20歳の職員の仕事を見学することでした。今、考えれば当たり前ですが、その職員の先輩はベッド上で寝ている男性のオムツ介助をした時の衝撃を今でも覚えています。介護という世界はよくも悪くも僕のイメージの中にありませんでした。当時の潤生園のショートステイの現場は20代の若者が多く(今はもっと多いです)その若者たちが介助方法はもとより、どうしたら認知症のAさんが安心して落ち着いて過ごせるのか、であったり、Bさんの最期の時間をどのように自分たちは支えていけるのかなど真剣に遅くまで討論している姿に、衝撃を受けたのも覚えています。

青森県内の、とある施設長の言葉で、「介護とはいろいろな職業の中で、突出したクオリティーが必要な総合職だ」といったニュアンスのことを言っている方がいました。1人の人間の継続した生活や人生に寄り添うことは、生半可な気持ちで接するのは失礼なことだと思っています。

僕は介護現場で働く10代、20代の若者たちが、人の生き死にや生活について真剣に議論している姿をみて、小学校の教員をやっていた自分は人生のなんたるかを全く分かっていなかったなと恥ずかしくなってしまったことと、これは人生をかけるだけの価値がある仕事だなと確信して介護福祉士としてのドアを叩いたことを今でも正しい選択であったと確信しています。ちなみにその先輩職員は、今も潤生園の職員としてお年寄りの傍らで若者たちのお手本となる素晴らしい介護福祉士として現場で活躍しています。

介護福祉士の歴史を振り返りながら、なんだか私たちの介護の出会いになってしまいましたね。

(後半に続く)



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