脳科学者の茂木健一郎さんと介護について対談したら、マネジメントから宮本武蔵、幸せまで膨らんで90分があっという間だった話
「介護福祉士の本」の取材を目的として開催された対談から、冊子には掲載しきらなかった話題をnoteでご紹介します。自ら「MC体質なんだよね」という脳科学者の茂木さんが、酒井常任理事を質問攻め!
ここでしか読めない、1万字を超えるおふたりのやりとりをお楽しみください♪
酒井常任理事のキャリアが気になる!
茂木:酒井さんも介護福祉士なんですよね。そして、経営者側でもあると。どういうキャリアで、今の地位にのぼりつめられたんですか?
酒井:え、私の話ですか? なんだか恥ずかしいですねぇ。それに、全然、のぼりつめてなんていないですし(苦笑)。
茂木:いやいや、これは大切な話ですよ。やっぱり新しく介護福祉士になった人、この会に入ったばかりの人からしたら、会の理事がどんなキャリアを持つ人なのかは、非常に気になることですから。
酒井:そうですか。では、ちょっとだけ、ご紹介しますね。私が介護の仕事を始めたのは20代。全くの無資格無経験で、社会福祉法人が運営する特別養護老人ホームの現場スタッフとして働き始めたんです。あとから、「介護福祉士」という資格があることを知って、取得したのが27歳のとき。働きながらの勉強は大変でしたけど、人生の中であれほど勉強が楽しいと思ったことはなかったですね。
茂木:ああ、それはすでに実務経験があったからじゃないですか? そのほうが、勉強内容が入ってきやすいってことはありますよね。
酒井:そうだと思います。この業界は、勉強する内容と仕事との結びつきがすごく深いので。現場で働きながら、「どうしてなんだろう?」と思っていたことが、勉強することによって「そうだったのか!」になる。学びの面白さを知りましたし、自分の介護への自信にもつながりました。
茂木:すばらしいですね。
酒井:ところがですね、私はそれで調子に乗っちゃって……。現場経験を積み、資格も取った私は、リーダーとして部下を持つ立場になったんですが、常に自分が考える“理想の介護”を下に押し付けるばかりで、かえってうまくいかなくなってしまったんです。もちろん、そんなつもりではなかったんですが、今、思えばですね……。「私の言う通りにやっておけば、絶対、間違いないんだ!」と思い込んでいました。そしてうまくいかないのは、部下のレベルが低いからだ、上司の理解がないからだ、と全部、人のせいにして。
茂木:こんなに謙虚な酒井さんに、そんな時代があったんですね。
酒井:若気の至りでした(苦笑)。何かというと部下を叱り飛ばして。でも、ある時、気づいたんです。問題の原因は、私自身のコミュニケーションのまずさなんじゃないかって。やっと自分を客観視できたんですね。きっかけは、コーチングのセミナーを受けたことでした。
それまでの自分はうまく行かないことは周りの人のせいでした。だから周りの人を変えようとしていたのです。
介護って、どう頑張っても一人ではできない、すごくチームワークが問われる仕事なんですよ。だからチームが壊れたままではいけないと思ったんですね。それで、「自分のコミュニケーションが原因なら、それを変えればチームも変わるんじゃないか」と、こう考えるようになってから、人生が変わり始めましたね。
茂木:それはおいくつくらいの時ですか?
酒井:35〜40歳のあたりです。資格をとってから8〜10年くらい後の話ですね。それから、現場スタッフとのコミュニケーションについて、いろいろ考えるようになっていったわけです。その流れで、キャリアコンサルタントの資格も取りました。
茂木:なるほど、そんな失敗から、ご自身を客観視できた。そこから、さらに現場を俯瞰できるようになっていかれたんでしょうね。そして経営の方に移っていかれたと?
酒井:ざっくり言うと、そういうことになるのかもしれません。今は、北海道の釧路にあるサービス付き高齢者向け住宅、障害者総合支援法で就労継続支援B型事業所を運営している会社で、専務取締役という立場で働いています。現場に出ることも少しありますが、むしろ今は、自分の経験──多くの利用者さんと接して得られたことやさまざまなエピソードからの学び、そして職場でのスタッフ同士のコミュニケーションの大切さを、今とこれからの世代に伝えていくことが、この業界で私ができることなのかなと思っています。
介護業界で経営やマネジメントに向いている人は?
茂木:やはり大切な学びがありました。お話を伺えてよかったです。と言うのも、僕は、ひとつの業界が実をともなって育っていくためには、現場で働く人と同じくらい、経営やマネジメントができる人が必要だと思っているんですよ。酒井さんのような方がいてこそ、介護業界が前に進んでいけるということです。そこで、改めてお聞きしますが、特に介護業界において、経営やマネジメントに向いている人は、どんな人だと思いますか?
酒井:そうですね……。私は、意図的なコミュニケーションが取れる人ではないかと思っています。あと、受容と共感、承認、傾聴と問いかけの大切さが分かっている人。つまり、以前の私のように、うまくいかないからといって感情的に叱りつけるのではダメですし、自分だけが正しいと思い込んでいてはダメということですね(苦笑)。
もっと詳しく言いますと、人って、ただ「考えて」と指示されても難しい、考えられない。上司の人たちは、そういうことを言いがちですが、ちゃんと「問いかけ」を伴っての「考えて」じゃないと意味がないんですよね。
そして、相手が考えた内容には耳を傾けて、認めてあげる。もし、それが理にかなった答えじゃなかった場合にも、ただ切って捨ててしまうのではなく、一緒に考えたり、フィードバックを重ねて答えに気づけるようにしたりとか。一方、ときには「やってごらん」と任せたりする臨機応変さ。それが、マネジメントにもリーダーシップにも必要なのではないかと思っています。
茂木:そういう柔軟性が求められているわけですね。
認知症の人の介護は、張り合いがない?
茂木:ところで、気になっていることがあるんです。もしかして、タブーな質問かもしれないんですが……。
酒井:この際、なんでも聞いてください(笑)。
茂木:介護の仕事は、やりがいあってこそ。僕もそう思います。でも、介護を受けている方が認知症で、どんなに親身になって介護してあげても、顔や名前どころか、どんなことをしてもらったかも全く覚えていない……ということも、当然ありますよね。仕方がないこととはいえ、これでは張り合いがないでしょ?
酒井:まあ、確かに、介護に限らずなんであっても、感謝の気持ちはダイレクトに伝えてもらえたほうがうれしいですからね。でも、「ありがとう」という言葉がないからと言って、こちらに感謝をしていないかというと、私は違うんじゃないかと思ってます。
茂木:と言うと?
酒井:これは私の経験なんですが、ある認知症の利用者さんを担当していたときのことです。普通にお話ができるわけではないし、はっきり意思を告げられたこともありません。でも、私がその人に接しているときと、ほかのスタッフが代わりに対応したときとでは、ずいぶん感じが違ったんです。表情や落ち着き感とでも言ったらいいのか……。その方が、どれくらいそれを具体的に自分で感じていらっしゃったのかわかりません。むしろ、わかっていなかったかもしれない。でも、感情がないかと言ったら違う。それを強く感じる経験でした。
茂木:じゃあ、もうひとつ。そこまで重度の認知症でなくても、何をしてあげても文句ばっかり言ってくる性格の悪〜い利用者さんだっているでしょう? そうすると、この仕事って報われない!って思ってしまいそうですが……。
酒井:それでも、必ずどこかで報われるものなんですよ。例えば、いつも文句を言ってばかりの方なら、その文句の言い方が変わるとか。「おい、お前」から「こら、酒井」に変わるとか。言ってる内容は変わらないとしても、名前を呼ばれると、「ああ、認めてもらえた」と思えるわけです。これも、気づかない人は気づかないかもしれない、小さなことですが。
ただもちろん、私も最初からそう思えたわけじゃないです。働き始めたばかりの頃は、かなり戸惑いました。心が折れそうになったこともあります。でも、やっていくうちに経験と知識をあわせてわかってきたことがある。そこから、徐々に受け止められるようになってきたと思っています。
茂木:さすがプロフェッショナルのお答えは違いますね。意地悪な質問をしてすみませんでした(笑)。
今、認知症は、僕の専門の脳科学の分野でも、非常に大きなテーマになってきています。だけど、いわゆる「認知症の原因は?」というと、まだはっきりわからない。いろいろ言われているものはありますが、どれも決定打ではないので、治療法も予防法も確立されていない。そして対処法にもこれが正解というのは、まだないわけですよね?
酒井:そうですね。だから私たちは、認知症介護の学びと実践を日々重ねています。認知症の方々のさまざまな症状に対して、私たちのケアがどう影響しているのか。
記憶障害や見当識障害、判断力低下などの認知症の中核症状に、体調不良やストレス、環境変化や不安、そして私たちの不適切なケアが影響してBPSD(認知症の症状のうち、認知機能の障害ではなく、抑うつ・妄想などの心理症状や、徘徊・攻撃的行動などの行動症状のこと)が現れます。
そのBPSDに関しては影響している原因をひもといて、何かできることがあるのでは、と常に考えています。ただその症状や行動を抑えつけるのではない方法が……。このあたり、脳科学的には、どう考えられているのでしょうか?
茂木:まさに現在進行形で研究されています。実は、「脳の可塑性」という視点でみると、どんなに認知症が進んだ方でも治る可能性はあると言われています。つまり、脳の中の「記憶の能力」が衰えたら、それを前提に、今度は脳の他の回路がそれを補おうとするものなんです。本人なりに、ですけどね。だから、どんな方でも、何歳になっても適応できる可能性はある。それを、管理管理といって、何か症状が出たら抑えつける、というだけでは、その可能性をいかすことはできないかもしれない。じゃあ、具体的にどうしたらいいのかというと……それはまだまだこれからですね。
酒井:ぜひ、研究成果に期待したいと思います。
お年寄りだってPCゲームもするし、ジャズで踊る!
茂木:ある知り合いの老齢の先生が、やはり認知症の症状が出てきたので、デイケアサービスに通い始めたんです。そして、そこで何が苦痛だったかといって、「皆で童謡を聴きながらお遊戯しましょう」と言われたことだったと。クラシック音楽を聴くのが趣味という音楽好きの方だったですけどね。それと似た話で、シニアの方々を対象とした講演会に行った時、司会者が「親睦のために、みんなで『ふるさと』を歌いましょう」ときたから、僕は思わず、「ちょっと待って。年寄りだから唱歌を歌わせておけばいいというのは違うでしょう」と言ってしまった(笑)。だって、参加者の顔ぶれをみればわかりますよ。彼ら、若い頃にビートルズとかを聴いていた世代ですよ? そういう、それぞれのバックグラウンドを無視したアプローチは、かなりズレているんじゃないかと思うんですよね。
酒井:ええ、よくわかります。耳が痛いところではありますが。
茂木:そんなふうに、良かれと思ってやっていることが、実は押し付けになってしまっていること、けっこうあるんじゃないですか?
酒井:ありますね。これは人間のくせみたいなものなんでしょうか。そして、その押し付けの前にあるのが、思い込み、決めつけ、勝手なイメージですよね。いま、おっしゃっていただいたように、お年寄りだから、民謡や演歌が好きだろうと思って、しょっちゅう施設で流したり、民謡・演歌歌手ばかりをお呼びしたりね。もちろん喜んでくださる方もいるけど、そうではない人もいる。認知症の方でも、反応する方もいれば、しない方もいる。わかっているはずなんですけどね……。
実際、こんなことがありました。ある時、ジャズバンドの方々が、「ぜひ施設で演奏させてほしいと」言ってこられたので、それを承諾する形でお招きしたんですね。ジャズなんてウケるかな……と思いつつ。ところが、大ウケだったんです。しかも、これまでどんな歌手が来ても無反応だった方が踊り出したりして。それを見て、ああ、なんて勝手なイメージで利用者さんたちを見ていたのかと、反省しました。どこから、そんなイメージが生まれてきてしまったんだろうとも。
茂木:ほんとですよねえ。僕の師匠の養老孟司さんは今、86歳ですけど、余暇の趣味、なんだと思います? 昆虫採集もさることながら、今ハマっているのはPCの戦略ゲームなんですよ。しかも朝までやっているそうです。でも、考えてみれば、あり得ますよね。シニアはゲームをしない、なんていうのは、ひどい思い込みですよ。
恋愛もそうですね。知り合いから、あるシニアの団体の中で、80代のすてきな男性を70代の女性2人が奪い合っているという話を聞きました。もう残された時間が少ないからということ、非常に熾烈な恋のバトルが繰り広げられていたらしいんですが、結果はなんと、新しく現れた90代の女性にとられちゃったんですって。これはとてもいい話ですよね。いろいろなステレオタイプを壊してくれるエピソードです。
酒井:そうですね。私は、食べ物についての思い込みで、いくつか思い出すことがあります。年寄りは、あるいは年をとったら、こういうものが好きで、こういうものは苦手だろうと思い込んでいませんか?年寄りは煮物が好きで揚げ物は苦手だろう、主菜は肉よりも魚だろうとか。でも、全然そんなことないんですよね。私が関わってきたお年寄りの多くは、フライドチキンが大好きでしたもの(笑)。病院受診の帰りに、小さな声で言うんです。「帰りに、ケンタッキーに寄ってくれない?」って(笑)。
茂木:へえ〜!
酒井:あと、マクドナルドもお好きな方が結構いらっしゃいました。カップヌードルなんかも。普段は施設では食べられないから、美味しく感じるというのもあるんでしょうけど。うちの栄養士はちょっと涙をこぼしていましたけどね(笑)。施設では、どうしても食事は一律にならざるを得ない。でも「食文化」ということでいえば、実際はさまざまあるわけです。その人らしさを大切にした介護を、と一口には言いますけど、なかなかそれを実現するのは難しいですね。
もうひとつ、これは少し違う話ですが、食事つながりでお話しすると、施設で何を出しても、ご飯の中に入れて一緒くたに混ぜてから食べる方がいて。なぜ、そんな食べ方をするのかわからず、私たちはそれを、当時の捉え方ですが「問題行動」だと捉えていたんです。でもある時、その方は韓国での生活が長くて、韓国籍も持っている方だとわかったんです。
茂木:ああ、なるほど。韓国では、そうやって食べる料理が多いですよね。その方にとっては自然なことだったんですね。
酒井:そうなんです。なのに、私たちはそんなバックグラウンドに気づきもせずに、「これは認知症による問題行動だ」として対応していた。これも、思い込みによる誤解のひとつですよね。とても勉強になりました。
介護と「アハ体験」と宮本武蔵!?
酒井:そういった思い込みもそうですけど、日々、仕事に追われていると、つい視野が狭くなってきてしまうということはあると思うんです。そういうときに気持ちを切り替えるのに効果的な、脳科学的ヒントがありますか?
茂木:おすすめは、宮本武蔵の『五輪書』です。剣術の奥義書ですね。すごくいいことが書いてあるんですよ。
酒井:えーっと、それが脳科学にどんな関係が……?
茂木:もちろん、いかに相手に勝つかということがテーマの本なのですが、その中に、「居着いてはいけない」とあるんです。「居着く」というのは、1つの手に全神経を集中させること。でも、それでは相手の攻撃をきちんとさばくことができない。つまり、1つのことばかりやっていると、他が見えなくなっちゃうということですね。それではいけない。全体をやわらかく見ることが大切だと。これ、実は、拙者が脳トレのひとつに提唱した「アハ体験」と一緒なんですよ。
酒井:アハ体験(人が瞬間的に、何かにひらめいたり、これまで気づいていなかったことに気づくこと)といえば、テレビで見たことがあります。2枚のよく似た絵や写真を瞬間的に見比べさせて、どこが変化したかを当てるクイズなどがありましたよね。
茂木:そうそう。あれね、テレビのクイズでやったら、東大出身のタレントは全然できなくて、学歴はさほどじゃない俳優のほうがめちゃくちゃ成績がよかったんですよ。それは、どっちが賢いということではなくてですね、要は、全体を柔らかく見ることができるかどうか、なんです。なんだか、ここ違和感があるな〜、という感覚ですね。それって、写真の一部分だけを見ていると気づかないんです。あえて焦点を絞らずに、写真全体を視界に入れておかないと。これを武蔵風にいうと、相手の刀の切っ先だけをじっと見ていたら、もし別の方向から攻撃をしかけられたら、絶対気づかずに負けちゃいますよね?
酒井:あ、なるほど。
茂木:だから、環境全体を柔らかく感じている状態を保つのが、必勝のコツというわけです。そして、これを介護の現場に当てはめると……利用者の方と向き合っているとき、ある特定のことばかりに目を向けていると、さきほど酒井さんがおっしゃってくださったような小さな変化、いつもと違う様子、異変に気づきづらくなってしまうということです。それが、ひいては「思い込み」にも、つながってしまうのではないでしょうか。
酒井:それで納得しました。例えば食事介助のとき、自分が使うスプーンばかり気にしていたり、相手の口元だけを見ていたり。特に初心者のうちはそうなりがちです。でも、食事のとき、利用者さんがどういう表情だったか、どこにどういう視線を送っていたか、もっというとどういう姿勢で座っていたのか、落ち着いていたのかキョロキョロしていたのか……。そういったところに気を配ることが大切だということですね?
茂木:そうです。きっと慣れも大きいのでしょうが、もし、ちょっと行き詰まったと感じている時には、これを思い出していただくといいかもしれない。ぜひ、宮本武蔵を目指していただきたいですね。
「それ、前にも聞いたよ」は禁物です!
酒井:介護の現場だと、思い出を語る利用者さんがとても多いのですが、それに関連して質問させてください。あるとき、心理学の先生から「人の生きがいは思い出だ」と言われたんです。茂木さんは、これはどういうことだと思われますか?
茂木:これは深いことをお尋ねになりますね。
酒井:でも、私はそれを聞いたとき、きょとんとしちゃったんです。だって、生きがいといえば、例えば、「家族が生きがい」とか、「趣味が生きがい」、「仕事が生きがい」とかって言いますよね。その先生は、それは認めたうえで、「それらはいつか無くなったり、形が変わったり、色褪せたりするものです。でも、思い出は、何年たっても変わるものじゃない。だから、人は思い出を思い出そうとしているとき、生きがい探しをしているんだ」と……。
茂木:それは、おそらく、「プレシャス・フラグメンツ」の研究にのっとったご発言なのでしょう。言葉の意味は、「尊くてかけがえのない断片」ですが、突然よみがえってくる、昔の幸せな記憶、大切な思い出のかけら、それが実はものすごく大事だという話です。マルセル・プルーストが書いた、20世紀を代表する長編小説『失われた時を求めて』が、まさにこれをテーマにしているといわれています。主人公の青年は、それこそ、ずっと生きがいを求めて、いろいろなことにチャレンジするのですが、全然だめだった。そんなある時、紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ時に、これまでの人生のことを思い出すわけです。そして、ああ、人の幸せって、お金儲けや社会的な成功ではない、何気ない日常の、ごく当たり前のことが幸せなんだと気づく──。
さて、酒井さんに質問です。今、パッと思いつく、子どもの時の思い出ってなんですか?
酒井:え! 言われて瞬間的に思い浮かんだのは、友達と草野球をやっていた時、ホームランを打ったんですよ。公園のフェンスを越えていった。たった1本だけのホームラン。
茂木:それって幸せですね。でも、なんでもないことでしょう。
酒井:ええ。いつも思い出しているわけではないです。
茂木:僕は、小学5年生のときに父親と北海道に行って「コマイ」という魚を食べたことを思い出しました。わかりますでしょう、酒井さん、北海道ですから(笑)。
酒井:もちろん。おいしいですよね。……と、こんなふうに、介護をしていてもしょっちゅう、思い出話を聞いているんですよ。「ああ始まった、また同じ話だ」と最初は思ってました。認知症になっても、長期記憶の方は保たれているというから、それで、その時の話ばかりしているんだろう、と思っていた時期もあります。でも、繰り返し同じ話を聞くうちに、徐々にそうは思わなくなりました。特に、「思い出がいきがい」という話を聞いてからは、私はこの人の思い出に、今、関わっているんだなと思うようになったんです。そして、この人にとっては、自分との関わりも、思い出になるのだなと……。
茂木:そう、そこですよ!そして、繰り返しという演劇性をいかに一回性の驚きにつなげるかが大切なんです。今度は、俳優で考えるとわかりやすいですよ。舞台演劇をやっている人って、毎日、同じことをやっていますよね。同じ動き、同じセリフ、同じ演技。でも、たいていの観客は1回しか見ない。なのに、役者たちが毎日繰り返していることを全面に出して舞台に立たれたら、嫌じゃないですか。「はいはい、ここでこいつと恋に落ちて、次のシーンでキスしますよ〜」みたいに。
酒井:それは……ちょっと、冷めちゃいますね。
茂木:そうなんです。だから、プロは、その物語を、まるで初めてのように驚きと感動を持って演じなければいけない。ですからね、僕は介護する人って、その要素も大切なのではないかって思うんですよ。おじいちゃんが100回目の話をし始めても、「へえ〜そうなんだ!」って初めて聞くみたいに聞いてあげることが。
酒井:そうですね。実際、聞いてみると、案外ちょっとずつ違うんですよ。話しているうち、もっと深くまで思い出すこともあるし、前と違う自慢話が出てきたり、時には泣き出したり。同じ話なんですけど、違うんですよね。
茂木:そう、変わっていくんですよ。だから、「おじいちゃん、その話は前にも聞いたよ」とか、「前に話してたのと違うよ」なんて言わず、素直に驚けばいい。もう、自分たちは劇団四季の俳優だと思えばいいんです。幕が上がるたびに、お客さんは違っているけど、絶賛ロングラン公演中だと。これは脳科学的な立場からも言いますけどね、日常でも絶対やってはいけないことは、「それ前にも聞いたよ」と言うことです。誰に対してもですよ。だから僕は何度でも同じ話をしてると思うし、友達の話が3回目でも、37回目でも、「へえ〜!」って言って聞くことにしています(笑)。それが結果、お互いの脳の活性化につながるのです。
酒井:介護現場では俳優になりきれ、ということですね。剣豪になったり名優になったり、忙しいですが、心しておきます(笑)。
みんな、介護福祉士会に入ろう!
茂木:今、この「介護福祉士会」の会員数はどれくらいなんですか?
酒井:4万に足りないくらいの数です。「介護福祉士」の有資格者は180万人を超えているのですが。まだ、あまり知名度が高くないのが、主な理由だと思います。
茂木:もったいない。一方、日本看護協会の会員数は約76万人。看護職の組織率はほぼ5割だとか。有資格者の人数では負けていないのに、この違いがどういうことかというと……。
酒井:そうですね、もし会員がどんどん増えていったら、国や社会に対しての発信力、発言力は、だいぶ違ってくると思いますね。
茂木:そういうことです。あと、介護のことに目を配ってくださっている議員さんって?
酒井:それが、あまりいないんです。
茂木:まさに、そういうことなんです。つまりですね、酒井さんが名刺を持って石破首相に会いにいくとするでしょう? そしたら、真っ先に聞かれますよ。「日本介護福祉士会の会員数は?」って。彼らの中では、会員数イコール票ですからね。だから、わずか4万人の理事の話は、なかなか聞いてもらえないというのが実情でしょう。
酒井:ええ、そういうところもあります(苦笑)。
茂木:とても大事なことですよ。でも、酒井さんには言いづらいかもしれないから、僕が言いましょう。みなさん、介護福祉士の資格を取ったら、この会に入りましょう! この業界で10年、20年やっていこうという覚悟とやる気がある人なら、なおさら。例えばお給料とか、社会的な地位とか、働きやすさとか。大勢の仲間と一緒に声を上げれば、きっと届きますから。そのための介護福祉士会ですからね。
酒井:そうです。それに、同じ介護福祉士だから分かち合えることもたくさんあると思っています。ひとつには技術的なことの共有。横のつながりは、やはり大切なので。それから、気持ちの面での共感。人と接することで、いろいろな感情を消費する職業だからこそ、同じ職業で同じような経験をしていて、互いに共感しあえる仲間がいると、とても心強いですよ。
茂木:もうひと押ししましょうか。酒井さんを見ていたら、わかると思うんです。幸せそうじゃないですか? 仕事が充実しているという意味と、あと、きっと何か秘密があるに違いないですよ……。ご趣味はなんですか?
酒井:わわ、また私の話ですか。えっと、音楽は好きですね。聴くのも演奏するのも。ギターやベースをやるので、バンドを組んでライブをすることもありますし。あと、人と会って話すことが好きなので、これは仕事でもそうですけど、おかげさまで日々、ワクワクして過ごしています。
茂木:すばらしい。僕はね、きっと、酒井さんは、そんなふうに自分の人生が充実しているから、心が潤っている人だから、介護の仕事もこんなに楽しく笑顔でできているんだと思うんです。ということで、僕から最後にお伝えしたいことは、プロフェッショナルとして利用者の方達に親切に接し続けられるためにも、自分を幸せにしてほしいということです。そして、そのためにも、仲間は必要。さあ、みなさん……何をすればいいのか、もうわかりましたね?(笑)
文:小倉佳子
写真:須田卓馬
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